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    3 年前

2011年3月29日火曜日

南三陸町歌津

TOSHIさん(NFK、METAL SLIDER) 
の日記   mixiより  2011年03月29日13:33

南三陸町歌津 

はじめに。
縁がありまして。
南三陸町歌津を訪問先としました事を各被災地の方々お許し下さい。

震災後。
一週間が経過し、ガソリン調達が不可能に近い宮城県仙台市若林区にて。
友人達が力を貸してくれて何とか軽自動車にガソリンが入り、
津波で海沿いの道が崩壊の為に内陸部から山越えの下道遠回りで南三陸町へ突入。

山道を進み南三陸町志津川への下りの途中で、緑色の風景が灰色に変わった。
北斗の拳やマッドマックスで見た景色が現実に目の前に広がる。


即座にこの灰色を受け止めきれず言葉を失った。




南三陸町志津川から山を緑色と灰色を繰り返し進み南三陸町歌津へ辿り着いた。
友人達の協力で集った、車一台分のわずかな衣類・食料だが渡すことが出来た。
道路が崩壊し物資の供給もしばしされなかったこの場所への道は、
被災者自ら瓦礫を取り除き無くなった道に砂利を敷き道をつなげ、
ようやく自衛隊とメディアが来たタイミングだった。


現地の人は、自分の事の前にまず、
他の人の事を考え"自分は大丈夫だから"と微笑んで口にする。

言葉や文字じゃうまく表現できないけど。
力強さと暖かさを感じた。
ほんの少しの物資しか運ぶ事が出来ない自分に。
"ありがとう"と行ってくれた。
南三陸町に来て良かった。
また来ますと、仙台へ戻った。



企業でも、ボランティア団体でもない個人の自分。
物資も金もガソリンもない。

自分に出来る事は何か。

南三陸町の帰り道からずっとモヤモヤしてた。
日帰りでは物資を運ぶだけで時間的にめいいっぱい。
なら、一泊して少しでも現地を手伝おう!

早速二度目の準備。

友人皆に声を掛けたいが一度に運べるのは車一台分。
しかも、ガソリン調達が難しくあちこち衣類などを頂きに回るガソリンもないので、
近場と用事がある所の近くの友人に衣類などを協力してもらい。
新生ビルテクノさんhttp://www.shinseibt.co.jp/index.htmlと言う企業さんが
物資提供をしていると聞いて伺いお話ししたところ快く協力してくれた。

通り道で見かけた用品店のおばちゃんも協力してくれて、



ガソリンスタンドに二度並びやっと出発。
下道を進み、緑の山から灰色の山を下り南三陸町歌津。



早速物資を降ろし渡す。
縁があってこの土地に二度来たが。津波の被害が特に酷い状況下にもかかわらず、
"よく来たな""家族大丈夫か?"と。前回お会いした方においては、
"またこんな所に来たな"と笑って声掛けてくれた。

町会長のクラさんに至っては"飯食え!さっさと飯食え!"と。
実家で握り飯握って食料持参してるから大丈夫だと何度言っても、
"うるせー。飯食え!ここにいる奴等は仲間で来てくれたおめーも
今ここにいるから仲間だ。さっさと飯食え!"
さすがにもう断われずありがたく頂いた。

http://www.youtube.com/watch?v=FswuKLEpRao
http://www.youtube.com/watch?v=eywqBndjtmQ

日が暮れると、街灯一つない町の空は見たこともない数の星でいっぱいだった。
持ってきた寝袋、毛布で車に寝ようとしていたら、
NHKで放送もされていた一郎さんが車は寒いから一緒にコンテナに寝ろと。

車で大丈夫と何度言っても、クラさん同様に折れてくれずコンテナにお世話になった。
海、漁師の町の人柄なのか、口調が強く、荒々しく強引だがすげえ暖かい人達ばかりだ。

まだ日が登る前に目が覚め、登る朝日に照らされた荒地を見て涙が出た。



朝日とともに皆さんの手伝い開始。



避難所となる唯一残った丘の上のセンターと呼ばれる小さな集会場に行き、
下の井戸からバケツで水を汲みセンターへと何度も往復し湯を湧かす。
約120人の食後の食器をまた水を汲み洗う。
朝の手伝いを終え、二階建の一階を津波で流された家屋の瓦礫、泥を運び出し片付け。






物資を積んだトラックが近くまで来たが崩壊した道を砂利で繋げただけの道は
細過ぎて通れないとのことで、車で往復し運びリレーしながら
倒壊した屋根の残った家屋へ運び入れた。

その後、津波の引いた街並みの中を歩き写真や書類、
家財を瓦礫の中から探すのを手伝わせてもらった。


午後になり。また来ますと手を降ると、両手を降り頭を下げてまで見送ってくれた。


二度、南三陸町に行き分かった事がある。

時間経過と共に必要となる物資のニーズも変わっていたこと。
津波で家屋が流された地域は物資を保管しておく場所が限られていること。

皆さんの気持ちいっぱいの物資なのだが、
年寄りが多く若い女性がほぼいないこの場所には
トラック半分の生理用品が運ばれて来た。

衣類は上着が大半でズボンや靴が足りない。 など。

現地に行き、見て聞いた自分達がメディアでは伝えきれない部分を
発信し少しでも多くの人に何かが伝われば幸いです。

何か力に成りたいけどどう動けばいいのか分からない人もまだまだいるはずです。

協力してくれた家族、友人達。
物資提供してくれた新生ビルテクノ仙台支店さん。
洋品店のおばちゃん。
ありがとうございます。

ガソリン調達がまだ厳しいですが、準備が出来たらまた行きます。

復興へはまだまだ時間がかかります。これからも皆さんの協力をお願いします。

めちゃくちゃな文章ですいません。文字で伝え切れない部分が山ほどあります。
何か少しでも伝わればと思います。